霞が関で政策を作る人たちと、病院の診察室で痛みに耐える患者さん。
両者の間には、時として深くて暗い「認識の谷」が広がっていることがある。
彼らのレンズを通すと、「美肌になりたい人が塗るクリーム」と、「抗がん剤の副作用で皮膚が裂けるのを防ぐクリーム」が、制度上は区別がつかないことがあるようだ。
「成分が同じなら、市販薬で代用できるのでは?」
「財源も限られている中、自助努力をお願いしたい」
この、論理的ではあるが現場の実情とは少しズレた正論が、いま医療現場に戸惑いを広げている。今回のテーマは、OTC類似薬(市販薬と同じ成分の薬)の保険外し議論。
これは単なる「節約」の話ではない。数字上の効率化を急ぐあまり、痛みと戦う人たちの命綱を、意図せず細らせてしまう——そんなリスクを孕んだ現実のお話である。
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ロキソニンやアレグラに上乗せ料金 OTC類似薬、77成分判明 - 日本経済新聞
市販薬と成分や効果が似る「OTC類似薬」について患者に上乗せ負担を求める77成分の詳細が23日、分かった。保湿剤のヒルドイドやうがい薬のイソジン、抗アレルギー薬のアレグラ錠、解熱鎮痛薬のロキソニン錠な ...
www.nikkei.com
見る場所によって変わる「薬の価値」
(ヒルドイド等)
(痛み止め)
成分だけで判断すると、この「意味の違い」が見えなくなってしまいます。
1. 「副作用」という過酷な現実
そもそも、なぜがん患者が大量の保湿剤や痛み止めを必要とするのか。
それを理解するには、抗がん剤治療というものが、体の中で何を引き起こしているかを想像する必要がある。
ドラマでは、少し吐き気がして髪が抜ける程度に描かれがちだが、実際はもっと壮絶な戦いだ。
例えば、「手足症候群」という副作用がある。
想像してみてほしい。
足の裏の皮がむけ、ひび割れ、真っ赤に腫れ上がり、一歩歩くたびに激痛が走る。
指紋が消えるほど指先が荒れ、ボタンを留めることすらできなくなる。
口の中は口内炎だらけで、水さえもしみて飲めない。
これは単なる「乾燥肌」ではない。細胞レベルのダメージだ。
この症状を食い止め、なんとか治療を続けさせるために、医師たちは保湿剤を「処方」する。美容液として使うのではない。全身を保護するために、チューブ何本分も使う必要があるのだ。
それを「市販薬と同じ成分だから、ドラッグストアで買ってね」と言うのは、「嵐の中を進む登山者に、雨具は自己責任で調達せよ」と告げるような危うさを孕んでいる。
2. 経済格差が「命の格差」にならないために
さらに懸念されるのは、これが患者さんにとって経済的な重荷になることだ。
がん治療は高額になりがちだ。高額療養費制度があるとはいえ、働けない期間の収入減も含めれば、家計への影響は大きい。
そこにきて、毎月数千円〜数万円の「保湿剤代」「整腸剤代」「湿布代」が全額自己負担としてのしかかる。
「たかが数千円」と思うかもしれない。
しかし、その積み重ねが払えなくて、患者さんはどうするか。
「節約」してしまうのだ。
保湿剤を塗る回数を減らす。痛み止めを我慢する。
その結果どうなるか。
皮膚トラブルが悪化して感染症にかかる。痛みに耐えきれず、メインの抗がん剤治療を中断せざるを得なくなる。
つまり、「ケアのための薬」を控えたせいで、「治療そのもの」が立ち行かなくなるリスクがあるのだ。
制度設計の段階で、こうした現場のリアリティは十分に考慮されているだろうか。効率化の波の中で、こぼれ落ちてしまうものがないか、慎重な検討が必要だ。
コストカットが招くかもしれない「負の連鎖」
一律に除外
控えてしまう
重症化
医療費が増える
目先の削減が、将来の負担を招くパラドックス。
3. 「例外」という名の高いハードル
もちろん、現場の医師たちや患者団体の声を受け、行政側も「がん患者や難病患者には配慮する(例外とする)」という方向性を示している。これは一歩前進だ。
だが、懸念は残る。
「原則禁止、ただし例外あり」という運用は、現場を複雑にするからだ。
「あなたは例外の対象ですか?」と証明を求められ、窓口での手続きが増えれば、疲弊するのは体調の優れない患者さんたちだ。
本来あるべきは、「成分」で一律に切るアナログな手法ではないはずだ。
【結び:数字の向こう側にあるもの】
数千億円の医療費削減。それは国の財政にとって魅力的な目標だろう。
しかし、その削減グラフの向こう側には、ひび割れた手でスプーンを握り、懸命に治療と向き合う生身の人間がいる。
彼らに必要なのは、贅沢品としてのクリームではない。
日常を取り戻し、治療を完遂するための、最低限の「装備」なのだ。
もしあなたが、政策決定に関わる立場にいるのなら、ぜひ一度、現場の声に耳を傾けてほしい。
効率化の計算機からは弾き出されてしまう、切実な「痛み」の存在に。