「時給1500円」目標の事実上の撤回
2025年11月14日の参院予算委員会で、注目すべきやりとりがありました。
立憲民主党の古賀之士議員が高市政権に対し、「2020年代に時給1500円」という目標の現状について質問しました。これに対する高市早苗総理の答弁は「今の段階で、明確に目標を示すのは非常に難しい」というものでした。事実上の撤回です。
さらに問題だったのは、片山さつき財務大臣の答弁でした。
「給料が払えるかどうかを全部国が決めてしまったら極めて社会主義的になる」
この発言には、見過ごせない問題が含まれています。単なる認識不足とは考えにくく、意図的な論点のすり替えと見るべきでしょう。
最低賃金は「社会主義的」制度なのか
まず、基本的な事実を確認しておく必要があります。
最低賃金制度は、世界の主要な資本主義国に広く存在する制度です。アメリカ、イギリス、ドイツ、フランス──いわゆる自由主義経済の先進国はすべて最低賃金制度を持っています。
最低賃金の役割は、労働市場の不完全性を是正することです。労働者は雇用者に比べて交渉力が弱く、生活がかかっているため不利な条件でも受け入れざるを得ません。企業間の過度な低賃金競争は、労働者の生活基盤を破壊します。また、生活保護水準を下回る賃金で働く方が損という逆転現象も発生します。
こうした市場の失敗を防ぐために最低賃金制度が存在します。資本主義を否定するものではなく、むしろ資本主義経済を安定化させ、持続可能にするための制度的装置と言えます。
「政府が決定する=社会主義」という単純な図式は、経済学的にも政策論的にも成立しません。片山大臣の発言は、「社会主義」という言葉が持つネガティブなイメージを利用した政治的レトリックです。論理的な内容ではなく、印象操作を優先した答弁ととらざるを得ません。
最低賃金と賃上げの意図的な混同
片山大臣の答弁には、もう一つ見過ごせない問題があります。最低賃金と賃上げを意図的に混同している点です。
最低賃金は、国が定める「この水準以下で雇用してはならない」という法的な下限ルールです。その主たる目的は、労働者の生活保障と市場秩序の維持にあります。
一方、賃上げは、企業が経営判断として給与水準を引き上げる行為です。その目的は人材確保や成長戦略の実現にあります。
つまり、最低賃金は法的強制力を持つ底上げ措置であり、賃上げは企業の自主的判断です。両者は性質が全く異なります。
ところが片山大臣は答弁で次のように述べました。
「公務員給与は当然上がることになり、地方の方もほぼ同率上げていく。こういう状況で日本は回っている」
この発言は、あたかも最低賃金目標がなくても賃金は自然に上昇していくかのような印象を与えます。しかし、公務員給与の引き上げと、民間の最低賃金労働者の処遇改善は、まったく別個の問題です。
これは論理的な説明ではなく、意図的なミスリードと言わざるを得ません。
中小企業の苦境──真の原因は何か
中小企業経営者の中に最低賃金引き上げに批判的な声があることは事実です。しかし、その背景にあるのは最低賃金制度そのものではなく、日本経済の構造的問題です。
長期的な景気低迷と需要不足
日本経済は長期にわたる低成長とデフレに苦しんできました。需要が伸びない中で、企業は価格競争に追い込まれ、利益率は圧迫され続けています。
この30年間、実質賃金が上がらなかったことで国内消費も停滞しました。中小企業が直面しているのは、単なる人件費上昇の問題ではなく、経済全体の需要不足という根本的な課題です。
価格転嫁不能という構造の固定化
長期にわたるデフレ環境の中で、中小企業は価格改定が極めて困難な状況に置かれてきました。元請企業との力関係の非対称性により、買いたたきや単価据え置きが常態化しています。
人件費が上昇しても、それを製品・サービス価格に転嫁できない。この構造が数十年にわたって固定化されているのです。
脆弱なコスト構造
人件費は、簡単には削減できない固定的コストです。そのため最低賃金の上昇は利益を直撃し、経営者に強い抵抗感を生じさせます。
しかし、繰り返しになりますが、本質的な問題は最低賃金ではありません。「景気低迷」と「取引構造」にあります。
大企業による価格抑制、下請け構造の歪み、公正取引の機能不全、そして経済全体の需要不足──これらが根本原因です。最低賃金を抑制しても、この構造が変わらない限り、中小企業の苦境は解消されません。
政府が本質的議論を回避する理由
では、なぜ政府は最低賃金目標を曖昧化し、「社会主義的」という的外れな批判を持ち出すのでしょうか。
政治責任の回避
日本の賃金が30年間停滞してきたという異常な経済構造は、自民党政権下で形成されたものです。
最低賃金の議論を真正面から扱えば、この30年間の政策の失敗という政治責任の問題に直結します。本質的な議論を避けているのは、そのためと考えられます。
大企業との利害対立
中小企業を実効的に支援しようとすれば、実は大企業との取引関係に切り込む必要があります。
価格転嫁の実効性確保、公正取引委員会の権限強化、下請け構造の是正、公共調達における適正価格の実現、生産性向上への投資支援──これらはいずれも、経団連をはじめとする財界との利害対立を生じさせます。
政権の主要な支持基盤との衝突を避けるため、構造改革は先送りされ続けているのです。
形骸化した支援策
現政権の中小企業支援を見ると、補助金や融資といった対症療法的施策が中心です。
これらが無意味というわけではありません。しかし、本質的な構造改革には踏み込んでいません。政治的コストが高すぎるためです。
結果として、問題の根本原因は放置されたままになっています。
「だんだんじわじわ」という無責任
片山大臣は答弁の中で「だんだんじわじわいきますよ」と述べました。
しかし、この30年間、日本経済はまさに「だんだんじわじわ」と衰退してきたのではないでしょうか。
明確な目標を持たない政策は、事後的な検証が不可能です。古賀議員が指摘したように、「民間企業では当然の話だが、目標値に向かって進まなければ、後で政策の検証ができなくなる」のです。
ニューヨーク市長は時給4500円という具体的数値を公約として掲げました。その是非はともかく、少なくとも検証可能な目標が存在します。対して日本政府は、具体的な数値目標すら示すことができません。
これは政策の放棄と評価せざるを得ません。
求められるのは本質的な改革
最低賃金引き上げの問題は、単なる「賃金水準をどうするか」という話ではありません。「経済構造をどう変えるか」という問題です。
取引構造の是正、価格転嫁の実現、生産性向上への支援──本当に必要なのはこうした構造改革です。しかし政府は、具体的な目標すら示さず、「だんだんじわじわ」という曖昧な表現で逃げています。
これでは、衰退は継続するばかりです。
レトリックではなく政策を
片山財務大臣の「社会主義的」という発言は、おそらく認識不足によるものではありません。意図的な論点のすり替えと考えるべきでしょう。
最低賃金という具体的な政策目標から逃避し、「賃上げ環境の整備」という抽象的な表現に置き換える。そして「社会主義」という印象的なレッテルによって批判を封じようとする。
しかし、国民が求めているのはレトリックではなく、実効性のある政策です。検証可能な具体的目標と、それを実現するための構造改革です。
「2020年代に時給1500円」という目標が事実上撤回されたことは、単なる数値の問題ではありません。
それは、この政権が日本経済の構造問題に正面から取り組む意思を持たないことの証左です。
議場で飛んだ「今まで数字目標をあげていたじゃないか!」というヤジは、多くの国民の問題意識を代弁していました。
目標を喪失した政策に、未来はありません。